わたしと音楽の話、ときどき母

私のこと

初めまして、和田涼音です。
東京で一人暮らしをしながら、ヴァイオリンを勉強しています。
気温は11月にしてやっと秋らしくなってきましたが、私の大学では登校初日の10月1日から強烈な銀杏が秋を臭わせていました。

季節のご挨拶はさておき。
ブログを始めるにあたって、一番初めに何を書こうかな〜と思ったときに、自己紹介のようなものがいいかなと。
でもただ好きな食べ物とかをつらつら書くのもしょうもないので、今までの私の音楽人生の話を自分で振り返りつつ、いま音楽をがんばっている人たちや悩める親御さんたちへ、なにか伝えれるものがあればいいなと思います。
絶対長くなりますので、都度目を休めながらお読みください。

2004年7月、あつくるし〜い顔で産まれた(らしい)私は、涼しい音 という名前をもらって、鉛筆を持つよりも先に弓とネックを握っていました。
(始めた年齢を母に聞いても2歳かな〜3歳だったかもかな〜みたいなあやふやな感じで、私は変な見栄を張っていつも2歳と言っています)

正直小学校のとき何を考えて何をしていたかはほとんど覚えておらず、母とふたりきり、家の防音室に籠っていたような。
大きなコンクール前は6時間とか、それは中学のとき?
いかに意思がなかったかが伺えますね。
どうやって防音室から逃げ出そうかばかり考えていたような気がします。
誕生日とかクリスマスとか、ことあるごとに一日練習お休み権をもらっていた思い出。

そしてなーんにも考えず、大阪の音楽科がある中学をお受験、無事合格。
そこで何があったかはちょっと多方面にアレなのでここには書けませんが、音楽が救いになるという初めての経験を得ました。
それまでは母に言われたから、やらないと怒られるから、という理由でやっていたヴァイオリンが、他人と戦うための武器に変わりました。
負けたくない、傷つけてくる人たちを、音楽で見返したい。
そんな思いで中学二年生のときに、小学生の頃から受けるのが恒例になっていた大きなコンクールで入賞、そのまま転校しました。
母と、「ここで賞を取って、学校から惜しまれながら辞めよう」と何度も何度もお互いに言い聞かせ、二人三脚、というかもはや足は二本しかなかった気がします。
なんなら心も、手も、ヴァイオリンを弾く時は全部ふたりでひとつ、みたいな。

でもその中学二年生のコンクールを最後に、私と母は音楽をしているときも別々の、ひとりひとりの人間に少しずつだけれどなっていったように思います。

私(母との複合体ではなく、ただの「私」)の音楽人生のひとつのターニングポイントは、これまたなんとなーく行った、京都の音楽高校のオープンスクールでした。
それまでの私は、ヴァイオリンは特に嫌いでもないけれど、これしか道がないし辞める選択肢もないので続けている、という感じで、自分で決めた目標も夢も特にありませんでした。
でもそのオープンスクールに行ってオーケストラの授業を見学したとき、興奮気味に「私、ここに入りたい」と両親に言ったのを今でも覚えています。
それまでもジュニアオーケストラには所属していて、それでもあのとき受けた衝撃は未だに忘れられないほど。

そこから受験を決意して、受験曲が発表されたあと、「これからはひとりで練習するから」と言って母を防音室から追い出して。
母は本当に心配そうでした。
廊下からこっそり聞いていて、どうしても我慢ならなくなるとガチャっとドアを開けて、「ここ、こうした方が……」と遠慮がちに行って、それを私が怒ってまた追い出して。

母とは本当に仲がいいのですが、音楽が挟まるとどうしても反抗してしまって、受験という人生を大きく左右するイベントをひとりに任せていいものかと思う母の気持ちも今ではわかりますし、すごく難しかっただろうなあと思います。ごめんね、母。

そして2月、「コロナ」という単語が少しずつ日本で囁かれるようになった時期に、私は憧れの高校を受験し、合格しました。
入学式はギリギリあって、3ヶ月休校、毎年あるはずの遠足も3年生で最初で最後、修学旅行もなく。
でもなーんにもなかったなあ、というわけでもなくて、年2回の演奏会は欠けることなくありましたし、ゆるい校則と先生たちのもとでのびのびと楽しく音楽を満喫しました。
「ヴァイオリン」ではなく、「音楽」を好きになれたのは高校のおかげです。
もちろん多感な時期だったので色々ありましたし、楽器の上手い下手が価値を決めるような音楽高校ならではの感じに傷だらけになってしまったことも数えきれず。
切磋琢磨といえば聞こえはいいですが、磨きすぎてすり減ってしまっていたんだなあと、今ならわかります。
当時はそれが当たり前だと思っていたので、気づくことはありませんでした。

大学生になった今、たまに高校の後輩に会って話をすると、やはり彼女たちは実技試験の順位や点数、他の子と比べてコンクールの成績がどうだ、といったことに囚われきっていて。
本人たちもそれが当たり前だと思っているから何も思わないのでしょうが、私は少し可哀想だなと思います。
早く抜け出しておいで、あなたたちの価値はそんな数字では決められないんだよと言ってあげたい気持ちになるのですが、それはいずれ自分で気づくしかないので話を聞きつつそっと見守るだけに留めています。

少し話が脱線しますが、母の生徒さんや知り合いなんかで、その高校に入りたい ということをちらほら聞きます。
どうでしたか?と聞かれるたびに私は「とってもいい高校です!」と答えているのですが、それはまったく嘘ではなく。
色々あったし楽しいばかりではなかったけれど、私は今でもあの高校が大好きです。
いつかあそこに戻るために、大学で教職を取っているほど。

誰かが歌い始めれば適当なハモりと合いの手を入れていつのまにか合唱になっているような、あの教室は、他のどんな苦しい思い出よりも鮮明に蘇りますし、なにより私は校歌が大好きです。
あんなに素敵な校歌(しかも混成四部合唱!)は、世の中のどこを探してもないと思います。
音楽が好きな人はもちろん、音楽を好きになりたいと思っている人も、どうか仲間を見つけてほしいと願う親御さんにも、みーんなにオススメしたいくらい、大好きです。

話を戻して、私のターニングポイントふたつめ。
高校一年の頃に起きた、若き師匠との出会いです。
5歳年上の師匠ですが、なんと出会ったときは、今の私と同じ20歳。
既に国内外の様々なコンクールで名を残し、ソリストとしてばりばり活躍していました。
母と私はそんな彼の大ファンで、ひょんなことからレッスンをしてもらえることに。
そこからは怒涛の日々でした。
弓や楽器の持ち方、姿勢、押さえ方、ビブラートのかけ方、何もかも今まで培ってきたものを一旦すべてゼロにするような作業。
目から鱗、どころか目ごとぼろんと落っこちてしまうような教えの数々を体に染み込ませることは決して楽ではなく、思うように弾けないわコンクールでは結果が出ないわでかなり辛かったです。
一から積み上げ直しているのですから、当たり前ですよね。

それまでの約13年間をほとんど0にまで戻すということはとてもこわくて、果てしなく遠い道のりで。
それでももし師匠と出会っていなかったら今頃どうなっていたか、想像するだけでもこわくてこわくて仕方がありません。
手を何度も壊し、力でごり押し、音量と譜読みの速さしか取り柄のないヴァイオリニストになっていたと思います。
私の20年間で一番の出会いだと言えますし、私の人生を180度変えてくださった恩師に出会えて幸せです。

そして私は現在、東京藝術大学の二年生です。
受験は本当に辛くて、よくびっくりされるのですが私と母はとことんメンタルが弱く、受験前もふたりで精神的なものから来る体調不良と戦っていました。
(なぜかペットのうさぎまで飼い主につられてお腹を壊していたので、正確にはふたりと一匹)
過酷を極める受験の話はこちら
心も体もボロボロになりながら入学したそこは、今までの私の価値観をひっくり返してしまうような、あたたかく優しい場所でした。

大学自体は特に好きでも嫌いでもないのですが、私は本当に同期たちと門下の先輩方・後輩たちに恵まれました。
どんな演奏も好意的に聴いて、素直に心からの言葉で賞賛する。
同級生を嫌味なく、すごい、と言える。
私はこれまで恥ずかしながら、「自分よりもここが劣っている」だとか、「あ、今ミスした」だとか、人の演奏を否定的に捉えてばかりでした。
でも彼女たちと出会って、技術の有無以外の音楽の「素晴らしさ」を知り、心から音楽が大好きになりました。
小学生の私が今の私を見たらびっくりすると思いますし、きっと憧れると思います。

だからよく母の生徒さんのお母様方に「うちの子が練習しなくて」「ヴァイオリンあんまり好きじゃなくて」とご相談を受ける度に、「大丈夫です、いつかきっとタイミングと出会いがあります。」
と答えています。
きっといつか「その日」はやってきて、いつ、どのように来るかはわからないし、それは本人や親御さんにはどうにもできないことだから、今はやれることをやりながら気長に待っていれば大丈夫です。

母はよく、ああすればよかった、こうしてあげればよかった、と今でもたくさん私の育てかたについて後悔しているみたいです。
でも過去に戻って母が後悔したことを全部クリアしてしまったら、きっと今の私はないと思いますし、私は今いちばん音楽人生を楽しんでいるので、結果オーライです。

長々と書いてしまいましたが、結局何が言いたいかというと、みなさんもっと気楽で大丈夫ですよということです。
なるようになります。
逆に言えばどれだけ過去を後悔しようと未来へ対策しようと、なるようにしかなりません。
ただ、私がここ数年モットーとしているのは、「チャンスの女神は前髪しかない」ということ。
ひとつひとつの出会いときっかけを大切にして、あとはチャンスがきたら逃さないように。

私は素晴らしい成績を残しているわけでも名の知れたスターでもありませんが、音楽を楽しむ という点では全然他に負けている気がしません。
もし僕はヴァイオリンで大スターになるんだい!という子がいたら私の20年間はまったく参考にならないと思いますが、少しでも悩める方たちのきっかけになれたらと思います。

最後に、ここまで読んでくださった方に宣伝をさせてください(笑)
大阪の実家と東京で、不定期ですがレッスンをしたいと思っています。
骨や筋肉の仕組みをもとにした体の使い方だったり、長年の研究で得た本番で緊張しても今まで通り弾ける方法だったり。
師匠たちから学んだことを惜しみなくお伝えします。
ご興味がある方はぜひ!

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